真田一族は信繁だけじゃない!祖父・幸隆と父・昌幸の天下人も狙えるほどの能力と凄さ

NHK大河ドラマ「真田丸」の放送で俄然注目を集める事となった真田信繁を始めとする真田家。

信繁(幸村)の人気は江戸時代の講談師から脈々と続いており、最近ではゲームやアニメのキャラとして若者にもすっかり定着するなど、すでに日本では国民的人気を誇る戦国武将です。

この信繁に比べて一般的な知名度は低いものの、歴史好きにとっては祖父である幸隆と父の昌幸の有能さも知れ渡っていますね。

そして恐らくこの「真田丸」によって父も国民的に広く知られる事となると思います。

ただ、歴史好きな人にとって残念なのは祖父の幸隆が出ないことではないでしょうか。

出ないと言ったのは放送開始の5日前の1月5日の現時点で幸隆が出るという情報がどこにもないからです。ここまで直前になってもないという事は恐らく出番はないと思われます。情報では第1話は天正十年(1582年)から始まるそうです。幸隆が亡くなったのが1574年ですから無理もないですね。

ここでは真田信繁の父と祖父、それぞれの凄さを個別に見ていきたいと思います。知ってる人は復習をかねて、知らない人は「真田丸」への予備知識のつもりで見ていただけると幸いです(笑)

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知略、謀略の将・真田幸隆

信繁の祖父・真田幸隆は元は信濃(現在の長野県)の小豪族でした。しかし、武田信虎や村上義清、諏訪頼重らの連合軍の攻撃を受け領地を追われます。流浪の後、旧領回復を目指して武田晴信(信玄)の代に武田家に服属したといわれています。

この幸隆の代名詞と言えば、何といっても調略でしょう。調略とは政治的、戦略的な工作、諜報活動の事です。とりわけ幸隆の得意としたのが戦における敵方への調略でした。

幸隆の最も有名な調略が戸石城(砥石城)攻略です。この戸石城は幸隆を信濃から追いやった張本人の一人、村上義清の治める城であり、戦国最強と謳われる武田信玄が2度攻めても落ちなかった要害でした。2度の城攻めのうち、特に2度目の敗戦は「戸石崩れ」の名がつくほどの武田軍の惨敗であり、武田信玄の生涯の中でも最大の負け戦とまで言われるほどでした。それほど村上義清は強かったのです。

ところが、武田軍が大軍をもってしても落とせなったこの城を幸隆は何と1日で落城させてしまいます。

幸隆は村上義清の家臣で戸石城にいた弟・矢沢頼綱と内通し、この城を奪ってしまったのです。当時、駿河の今川義元と並んで天下人に最も近いと言われた武田信玄が7000人の兵をもってしても落とせなった城をたった1日、しかも一人の戦死者も出さずに。

武田家は元々譜代の家臣(何代にも渡って仕えている昔からの家臣)は出世できますが、外様の家臣(新しく家臣になった者)には冷たく、はっきりと待遇の差をつける大名でした。そんな武田家の中でも幸隆は信玄に高く評価され、甲府に屋敷を持つことを許されるなど、譜代の家臣と同様の待遇を受けていました。これだけでも幸隆の傑出した才能が見て取れますね。

村上義清は戸石城を幸隆に奪われたのをきっかけに没落し、結局信濃を捨てて越後の上杉謙信を頼ります。幸隆は宿敵・村上義清を追いやり、念願の旧領回復を果たします。真田家の信濃における歴史はここから始まったと言ってもいいでしょう。

ちなみに、越後に逃れた村上義清の領地を奪い返すべく上杉謙信が信濃に出向き、信玄と戦ったのがかの有名な「川中島の戦い」です。川中島の戦いの発端は真田幸隆の戸石城攻略と言ってもいいのかもしれませんね。

正しく真田家の礎を築いたこの真田幸隆。その知略・謀略はそのまま子の昌幸へと受け継がれるのです。

ちなみに、真田丸には恐らく出ませんが、1988年の大河「武田信玄」では橋爪功さんが、2008年の大河「風林火山」では佐々木蔵之介さんが演じています。どちらも知将・幸隆を上手く演じていましたね。

天下人・徳川家康を二度までも破った真田昌幸

信繁の父・真田昌幸は幸隆の三男として生まれ、武藤家を継いでいたのですが、長男・信綱と次男・昌輝が相次いで「長篠の戦い」で戦死した事で真田家の当主になりました。

織田家によって勝頼が自害に追い込まれ、武田家が滅亡すると織田信長の家臣となります。しかしその僅か3か月後には「本能寺の変」で信長が自害。カリスマの死によって昌幸が治める信濃も混乱を来し、織田勢は信濃から撤退を余儀なくされます。この機に乗じて昌幸は領地を拡大、上野国の沼田城も奪います。

程なくして越後の上杉景勝が北信濃に攻め込んでくると、昌幸は上杉景勝に臣従します。しかしそれからわずか2週間余りで今度は上杉の敵国・北条氏直に寝返ります。そしてその約3か月後にはその北条を裏切り、北条と戦を繰り広げる徳川家康の家臣となるのです。

しかし、この北条と徳川が和睦する事となります。そしてその和睦条件として、家康は昌幸に対して沼田城を北条に差し出すように命令したのです。これに納得出来ない昌幸は徳川と決別し、一度は裏切った上杉景勝を頼ります。次男・信繁を人質として差し出した昌幸を景勝は許し、臣従を許可するのです(上杉景勝のこういうとこが大好きなんです)。

どうですか?凄いでしょwww

しかし、真田家のような小大名が家と領地を守るためには致し方の無い事だったのです。

第一次上田合戦

これに激怒したのが北条に対するメンツを潰された家康です。家康は昌幸を討伐すべく、7000の兵を昌幸が籠る上田城へ差し向けます。

これが史上名高い「第一次上田合戦」です。

7000の徳川軍に対して真田軍は1200ほどであったと伝えられています。約7倍の兵力差です。

しかし昌幸は引くと見せかけて相手をおびき寄せ伏兵で叩いたり、城内に誘い込んで殲滅させるなどのゲリラ戦法を用いて徳川軍を圧倒。結局家康は昌幸討伐を諦めて撤退する事となります。

上田城における戦いでの徳川方の戦死者は1300人、真田方は40人ほどであったと言います。

この第一次上田合戦によって真田昌幸の名は瞬く間に日本中に知れ渡る事となるのです。

長男との別れ

第一次上田合戦後に昌幸の長男・信之は徳川家康の重臣で徳川四天王の一人、本多忠勝の娘を妻に迎え徳川方との関係修復を図ります。一方、次男の信繁には豊臣秀吉子飼いの大名・大谷吉継の娘を嫁として豊臣方とも友好関係を築きます。この婚姻が後の関が原における親兄弟の離別につながるのです。

天下人・豊臣秀吉が死去すると露骨に天下人への野心を露わにする徳川家康と、家康の野望に豊臣家存続を危ぶむ豊臣政権の五奉行の一人、石田三成との対立はもはや避けられないものとなります。

そしてついに石田三成は決起し、家康追討の軍を起こします。戦が決定的となった三成方と家康方は全国の大名に味方になるように要請します。

ここで先ほどの婚姻関係が大きく関わってくるのです。

家康に近い長男・信之と豊臣家の三成に近い次男・信繁です。父・昌幸は三成側に味方すると決断しますが、それに信之が異を唱えます。話し合いは決裂し、結局昌幸と信繁は三成に、信之は家康に味方する事となり、親兄弟で相争う事態となるのです。

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第二次上田合戦

三成と雌雄を決するべく江戸を立った家康は東海道を西へと進みます。しかし、息子の秀忠には別動隊として3万8千の兵を与え、中山道を西へと向かわせます。

中山道を行く秀忠軍の目と鼻の先にあったのが、三成についた昌幸の居城・上田城です。

秀忠は昌幸に降伏の使者を送ります。昌幸はのらりくらりと返事をはぐらかして時間を稼ぎます。そして数日後に届いた昌幸の最終返答は

「ようやく戦の準備が整いました。一戦つかまつろう」

というもの。当然秀忠は激怒し、上田城攻撃を決意します。

しかし、これぞまさに昌幸の思うつぼ。はなから昌幸の狙いは秀忠の足止めであったと言われています。つまり、天下分け目の家康と三成の関が原の決戦において3万8千の秀忠軍が加われないとなれば、家康軍の戦力は大いに低下し、三成方に有利になるというものです。

すでに3日も上田に足止めを食っているうえに、さらに上田城を攻めるとなれば昌幸は笑いが止まらなかったでしょうね。

昌幸は城門前に徳川軍をおびき寄せておいて城門を開き、鉄砲を撃ちかけた上に追撃して散々に打ち破った他、信繁が秀忠本陣に夜襲をかけて混乱させたり、堤防を決壊させて徳川軍を溺死させるなどの様々な戦法で圧倒的兵力差の徳川軍を撃退します。

この敗戦の様子は徳川方の資料でさえ、「わが軍大いに敗れ、死傷者算無し」と記す程の惨敗であったと伝えています。

結局、家康から「9月9日(翌日)までに美濃へ着くように」との使者が到着したこともあり、秀忠は備えの兵を残し、上田城を諦めて西へと急ぐこととなるのです。

この合戦において昌幸は、一度ならず二度までも自軍の何倍もの大軍を擁する徳川軍を蹴散らしたのです。

真田の名は再び天下に轟いたのです。


天下人の器をもつ男

結局秀忠軍は関ヶ原の合戦に間に合いませんでした。昌幸の目論見通りになったのですが、肝心の関が原ではわずか1日で三成は家康に敗れてしまいました。

天下分け目の戦に勝利した家康は文字通り天下人の座を確実なものにし、三成方についた大名たちの処罰に乗り出します。

家康は昌幸と信繁は死罪とするように決定します。しかし、徳川方についた長男・信之が自らの戦功と引き換えに助命を嘆願したため、家康は折れて二人を高野山へ配流することとします。

高野山で信繁や家族、僅かな家来とともに監視付きの生活を強いられることとなった昌幸は、赦免される事を望みながら配流から11年後に高野山で息を引き取りました。享年は65とも67とも言われています。

もしもこの昌幸が信濃の小大名ではなく、もっと大きな領地を持ち、もっと多くの兵を動員できる大名だったとしたらどうなっていたでしょうか?

時勢に応じて主君を変えるその政治力と先見の明。そして徳川軍を二度にわたって圧倒した知略と戦上手ぶり。天下も狙える器であったのは間違いないでしょう。

歴史にif(もしも)はありませんが、関ヶ原でもし三成が勝利を収めていれば・・もしもっと大きな家に生まれていれば・・と思わずにはいられない武将ですね。

 

 

どうですか?この2人。

どちらにも共通しているのが知略に長けているという事。

煮ても焼いても食えないってとこでしょうか(苦笑)

この二人の血は「日本一の兵(つわもの)」と日本中の武将から称賛される事となる信繁へと確実に受け継がれる事となります。

信繁が命を懸けた乾坤一擲の戦いを見せた大坂の陣での勇姿は、ある意味真田一族の集大成といえるものなのかもしれませんね。

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