大河ドラマ「真田丸」 キャスト・人物ネタバレ 織田家編 第六天魔王・信長、嫡男・信忠 本能寺に散った英傑達

NHK大河ドラマ「真田丸」の第1回「船出」の時代設定が天正十年(1582年)の1月から3月です。

織田信長が「本能寺の変」において明智光秀に倒されたのが同年の6月。つまり、この真田丸においての織田信長は物語序盤で退場を余儀なくされてしまう運命というわけです(涙)。

本来であれば、この信長や光秀、さらにその配下の武将たちというのはこの戦国時代のまさに中心人物たちであるのですが、真田信繁(通称・幸村)を主人公として描くとこのようになってしまうのは致し方ないところです。

そんな信長を始めとする織田家の人々ですが、短い出演ながらもその雄姿をしっかり視聴者に残す程の熱演を期待したいものです。

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織田信長(吉田鋼太郎)

おだのぶなが。天文三年(1534年)に尾張国古渡城主・織田信秀の嫡男として生まれる。幼名は吉法師。別名は三郎、上総介(かずさのすけ)、右府(うふ)、第六天魔王(だいろくてんまおう)など。

幼少時は「尾張の大うつけ」と呼ばれるほど奇行が多く、家中の誰もが後に天下に号令するほどの傑物になるとは思いもしなかった。

天文二十年(1551年)に父・信秀が死去し、織田家の家督を継ぐ。当時の尾張は信長の同族の織田家や尾張守護・斯波家ら群雄が割拠する地域であった。しかし家督を継いだ信長はわずか8年で弟の信勝(信行)の暗殺や斯波義銀の追放などによって尾張を統一する。

永禄三年(1560年)には当時最も天下人に近いとも言われていた、駿河守護の名門・今川義元が信長の尾張へと侵攻を開始する。20000とも40000とも言われた大軍で織田家の城を次々と落としながら進軍する今川軍に対して織田軍はわずか5000程度であったと言われ、家臣たちは籠城戦や野戦を主張し混乱するなど信長は絶体絶命の危機に陥る。

しかし、深夜に突然城を出た信長は熱田神宮に参拝し、その後4000の兵を集めると、尾張国桶狭間で休憩を取っていた今川軍を急襲。虚を突かれた今川軍は混乱に陥り、今川義元は討ち死にし、今川軍は領国駿河へと退却した。これが世に名高い桶狭間の戦いである。

その後岳父・斉藤道三亡き後の美濃国も攻略し勢力下に治めた信長は居城を美濃移し、その地を岐阜と改名し、稲葉山城も岐阜城と名付けた。

永禄十一年(1568年)には足利義昭を第十五代足利幕府将軍として奉じて上洛を果たし、全国にその名を轟かせる。しかし程なくして信長の足利将軍家に対する不遜な態度に業を煮やした義昭は信長と対立するようになり、信長包囲網を敷かれた織田家は危機に陥る。

武田信玄の病死などで弱まった信長包囲網を何とか切り抜けた信長は、元亀四年(1573年)には信長に対して蜂起した義昭の軍を破って義昭を京から追放、ここに室町幕府は滅亡する。さらに義弟の近江・浅井長政や越前の朝倉義景を滅ぼし、着々と版図を広げていった。

天正七年(1579年)には五層七重の天守閣を持つ絢爛豪華な安土城が完成。安土城を拠点に全国制覇を目指す事となった信長は、一向一揆などによって血みどろの戦いを繰り広げていた本願寺と和解し、その矛先は越後の上杉家、甲斐の武田家、中国地方の毛利家へ向けられることとなる。

上杉攻めには宿老・柴田勝家があたって、上杉謙信亡き後の上杉家の諸城を落としており、越中から上杉を追い払い、越後に迫る寸前であった。武田攻めには嫡男・信忠を総大将としてその下に滝川一益が実質の軍団長としてあたった。武田軍は味方の裏切りが相次ぎ、天正十年(1582年)3月11日、武田勝頼の死をもって滅亡する。毛利攻めには農民から身を起こした羽柴秀吉があたったが、これも因幡・播磨・美作などの毛利領を順調に攻略していた。

そんな天正十年(1582年)6月2日、信長は中国の毛利攻めの準備のためにわずか100の手勢とともに京都の本能寺に滞在していた。そこに毛利攻めのために中国へと向かうはずであった家臣の明智光秀が突如として襲い掛かった。「本能寺の変」である。自ら槍や弓矢をとって戦った信長であったが、多勢に無勢。燃え盛る炎に包まれた本能寺で自害し、その生涯を終える。享年49。光秀は焼け焦げた本能寺で必死に信長の遺体を探したというが、首はおろか、骨さえも見つからなかったという。



わずか数か月の間だけですが、真田家が身を寄せる事となる織田信長。実はこの織田家にはまだ武田勝頼存命中から真田昌幸が接近を図っていたという説もあります。この「真田丸」では勝頼の死後に織田家への臣従を決めたとなっていますが、ホントのところはどうなんでしょうか。昌幸ほどの人物であれば、武田家の命運と織田家の強大さを見極められないとは思えません。真田家の存続のために事前に織田家に接近していたというのは十分にあり得る話だと思いますね。実際に武田家滅亡後に織田の家臣として認められているのを見てもその可能性を感じます。

この信長、後に天下人となる豊臣秀吉、徳川家康に最も大きな影響を与えた人物と言われていますが、この「真田丸」においてももちろんそうなのだと思います。この信長の良いところは取り入れ、悪いところを改善しながら秀吉と家康は天下を取ったとも考えられます。軍事、経済はほぼそのまま信長の政策を引き継いでいますが、家臣団の形成においては二人とも譜代と外様をしっかり区分けしていますね。もちろんこれは、外様の明智光秀の謀反によって命を落とした信長を反面教師にしたためでしょう。譜代大名で周りを固め、外様大名は遠国に配置した家康などはその最たるものですね。

戦国の風雲児、織田信長を演じるのは舞台俳優として名をあげ、今やテレビ・映画に欠かせない貴重な個性派俳優・吉田鋼太郎(よしだこうたろう)。大がドラマは1998年「徳川慶喜」、2007年の「風林火山」以来9年ぶり3作目。

いやいや、好きな俳優さんですね。2016年1月から毎週金曜深夜0:12からテレビ東京系で放送中の連続ドラマ「東京センチメンタル」ではバツ3の独身和菓子屋店主役で主演を張っていますが、これがまた面白いんです。てか、バツ3って吉田鋼太郎さんとおんなじですやん(笑)。この間4回目の結婚をされて(うち1回は事実婚なんですけどw)、幸せ真っただ中ってとこだけ違いますけどね(笑)。とにかくまだ見たことない人は見てみてください、おススメです。

小栗旬が初監督を務めた「シュアリー・サムデイ」のブッ飛んだ悪役なんかも良かったですし、同じNHKの朝ドラ「花子とアン」でも存在感たっぷりでしたよね。実力はもはやここでどうこう言う必要もないでしょう。

織田信長に関してはこれまで見た事の無いようなエキセントリックな信長像を期待してしまいますね。ただ・・・・もうちょっと長く出てくれぇぇぇぇっ!!(涙)

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織田信忠(玉置玲央)

おだのぶただ。織田信長の嫡男で幼名は奇妙丸(きみょうまる)。

弘治元年から弘治三年の間(1555~1557年)に尾張国で生まれる。永禄十年(1567年)には武田家と織田家との政略結婚によって武田信玄の五女・松姫と婚約する。その後、武田家と不和になったためこの婚約は解消される。

早くから信長は信忠を後継者として決めていたとされており、自分の後を託すため英才教育を行ったとされている。武田勝頼を破った「長篠の戦い」や雑賀攻め、裏切った松永久秀を討伐した「信貴山城の戦い」、さらに毛利家との「上月城の戦い」など織田家の重要な戦いで采配を振るった。

天正十年(1582年)の甲州征伐においては5万の大軍を率いて信濃へ進軍。武田方の城を次々と落とし、武田勝頼を新府城から撤退させて武田家を滅ぼした。

同年6月2日の「本能寺の変」においては、本能寺で父・信長が明智光秀に討たれた時に信忠も同じ京都の妙覚寺(みょうかくじ)に駐留していた。信長の死を知らされた信忠は二条御所に立てこもって明智の大軍を迎え撃ったが、信忠の手勢はわずかであり、攻め寄せる明智軍に敗れ、自害して果てる。尚、家臣に命じて隠された信忠の遺体も、信長と同様に光秀は発見する事が出来なかったと言われている。

 

天才・信長の後継者であり、同じく京に散った若大将・織田信忠。信長ほどの才気あふれる天才ではありませんでしたが、堅実な二代目であったという事です。

もしも信長が本能寺で死んだと聞いた後に、信忠が二条御所での籠城ではなく、安土城か岐阜・尾張辺りに撤退していたら歴史はどうなっていたでしょうか。恐らく豊臣秀吉、徳川家康は天下人になれなかったでしょう。それほどに信忠は既に信長の後継者としてその地位を築いていたからです。堺で信長の死を知った家康は「伊賀超え」によって窮地を脱します。このような決断を信忠が下していれば、と思わずにはいられませんね。

悲劇の二代目・織田信忠を演じるのは玉置玲央(たまおきれお)。1985年生まれの30歳の俳優さんで、大河ドラマは初出演です。NHKでは朝の連続テレビ小説「花子とアン」にも出演しています。父の信長役の吉田綱太郎さんも出演されていますね(笑)。

吉田さんと同じく舞台で活躍されていた俳優さんですが、近年はテレビにも活躍の場を広げている新進気鋭の役者さんです。上川隆也さんが真田幸村(信繁)を演じた舞台「真田十勇士」では幸村とともに戦う十勇士の一人、穴山小助として出演された経歴もあります。

織田信忠役をどのように演じてくれるのか楽しみに見てみましょう。

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