[おんな城主直虎]“マツケン”松平健が演じる武田信玄 駿河侵攻に三方ヶ原の戦い、二度も井伊を追い詰めた名将

戦国時代末期から安土桃山時代の間の、遠江国井伊谷(いいのや)の国人領主として苦境の井伊氏を支えた女城主、井伊直虎を描くNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」。徳川四天王と呼ばれた井伊直政を養育して井伊氏を隆盛に導いた直虎ですが、直政の幼少期に井伊氏の強大な敵として立ちはだかったのが、「甲斐の虎」と呼ばれた戦国最強の呼び声も高い武田信玄です。

ここでは、井伊氏の最強の敵として登場するであろう武田信玄についてご紹介したいと思います。

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武田信玄(たけだしんげん/晴信)の略歴・生涯

甲斐源氏嫡流・甲斐武田氏の第十九代当主。幼名を勝千代又は太郎、通称を太郎、諱(いみな)を信玄、法号・法名を徳栄軒信玄。

大永元年(1521年)11月3日、甲斐の名門・甲斐守護武田信虎の子として生まれる。母は正室・大井夫人(大井の方)。同母弟に甲斐の副将といわれた名将、典厩(てんきゅう)・武田信繁や信玄に似ており、信玄の影武者を務めたといわれる武田信廉(のぶかど)らがいる。

信玄が生を受けた時期はちょうど父・信虎が甲斐統一を成し遂げた時期であった。信玄には4歳上の兄・竹松がいたが7歳で早逝したため、信玄が嫡男になったといわれている(異説あり)。

嫡男として武田の将来を背負う立場にあった信玄であったが、大井夫人に弟の次郎信繁が生まれると状況が変わる。父・信虎の寵愛は嫡男の信玄ではなく、次男の信繁に注がれたといわれており、やがて信玄が長じていくにしたがって信虎は信玄の廃嫡・次郎信繁の家督相続を願ったといわれている。

信玄は天文二年に扇谷上杉家当主・上杉朝興(うえすぎともおき)の娘を正室に迎えるが、翌年出産時に正室は死去。信玄は元服後に継室として京の公家、左大臣・三条公頼の娘、三条の方を迎えている。三条の方との間には長男の太郎義信らが生まれた。信玄は天文五年(1536年)に元服し、当時の将軍・足利義晴から偏倚を賜り、名を晴信と改める。

親子間の対立が激しくなっていた天文十年(1541年)、信玄は武田家の重臣である板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌らを味方につけ、父であり当主でもある武田信虎を駿河国へと追放して武田家十九代当主となった。

名門・甲斐武田家当主となった信玄は父・信虎の悲願でもあった信濃統一に力を入れる。諏訪頼重や高遠頼継、大井貞隆らを滅ぼし、天文二十年(1551年)には家臣の真田幸隆の調略などによって宿敵であった葛尾城城主・村上義清を越後へ追いやり、北方を除く信濃のほぼ全土を手中に収める事となった。

駿河国の今川義元、相模国の北条氏康と甲相駿三国同盟を締結して後顧の憂いを無くした信玄は、北信濃を追われた村上義清の旧領を回復すべく信濃に出兵してきた越後の上杉謙信と川中島で5度にわたってに激突(川中島の戦い)。中でも最激戦となった永禄四年(1561年)の第四次川中島の戦いは双方に死者を多数出す死闘となり、信玄も弟の典厩信繁や軍師・山本勘助、重臣・諸角虎定らの中心的武将を亡くすという痛手を被ったが、北信濃は何とか死守して戦略的勝利を得る。

同盟相手であった駿河の太守・今川義元が尾張の織田信長との桶狭間の戦いで亡くなると、信玄は義元の後継者として今川家当主となった脆弱な今川氏真を見限って今川家と手切れとし、三河国の徳川家康に遠江国を割譲する条件でともに今川領へと侵攻(駿河侵攻)。なお、今川義元の娘を正室としていた嫡男・武田義信と父・信玄は義元死後、駿河侵攻の前に対立が激化。義信は廃嫡されて幽閉先で切腹して果てた(病死説もあり)。この駿河侵攻によって武田と今川・北条は戦争状態となって甲相駿三国同盟は完全に破綻した。

織田信長と室町幕府十五代将軍・足利義昭が不和となると、信玄は義昭の呼びかけに応じて信長包囲網に参加。信長と同盟関係にあった徳川家康とも敵対関係となり、元亀三年(1572年)、信玄は甲府から家康の治める遠江・三河へと侵攻を開始する。

瞬く間に徳川方の諸城を落城させて西上する武田軍に対して徳川家康は三方ヶ原の戦いで大敗を喫して絶体絶命の危機に陥るが、武田家の総大将である武田信玄の病が悪化し進軍が停止。信玄の病は好転せず、元亀四年(1573年)4月12日、甲斐へと引き返す途上で病により死去。享年53。死に際して自分の死を三年間秘する事、自分の死後は宿敵である越後の上杉謙信を頼る事などの遺言を残したといわれている。尚、甲斐の名門守護大名・武田家は信玄の死から10年も経たない天正十年(1582年)に信玄の後を継いだ武田勝頼が織田信長によって自害に追い込まれ、滅亡した。

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戦国三傑(信長・秀吉・家康)、上杉謙信と並ぶ人気を誇る「赤備え」甲斐の虎

武田信玄といえば、戦国時代では三傑といわれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に並ぶほどの人気と知名度を誇る超大物戦国武将ですよね。しかしその知名度や人気に反して、大河ドラマではそれほど登場頻度は高くありません。まあ三傑が実際に天下を取った人物ですから、政治の中枢に常にいたという利点はやはり大きいといわざるを得ませんよね。信玄や上杉謙信、北条氏康、さらに毛利元就や伊達政宗などはあくまで地方の戦国大名に過ぎないという違いは大きいでしょう。

しかしだからこそ、この「おんな城主直虎」で武田信玄が登場すると知った時には非常に嬉しいものがありました。下手をしたら名前だけで登場シーンすらないのではと思っていましたからね(苦笑)。

では具体的に遠江国井伊谷の国人領主である井伊直虎と、甲斐国・信濃国を領する戦国最強大名ともいわれる武田信玄がどう関わってくるのでしょう。ハッキリ言ってその存在の大きさは全く違います。ぶっちゃけ、政治家に例えると地方の市町村会議員と大臣クラスくらいの差があるといっても過言ではないかもしれません。

しかし、井伊家にとって武田信玄の動向というのは井伊の家名が存続できるか否かのカギを握る程に重要だったのです。当然この時代の井伊氏を描くのであれば避けては通れない重要人物なのです。

そして井伊直虎が育てて徳川四天王と呼ばれる事となった井伊直政の代名詞である、兵士の武具や鎧などを全て朱色に染めた軍団、「赤備え(あかそなえ)」。この「赤備え」の元祖こそ武田軍なのです。井伊直政は武田軍の神がかり的な強さにあやかるために、敵がその姿を見ただけで恐れを成した武田家最強軍団のシンボルともいえる赤備えを継承したともいわれているほどなのです。なかなかに運命的なつながりがあるんですよね。

駿河侵攻、西上作戦の二度、井伊谷を危機に陥れた戦国最強の武田軍団

甲斐と信濃、さらには西上野にも勢力を広げ、天下人候補にも挙げられた武田信玄が、なぜ遠江国井伊谷の領主に過ぎなかった井伊氏と絡んでくるのでしょうか。

それは、上の武田信玄の略歴・生涯の項で述べた「駿河侵攻」においてです。

元々武田家と今川家は、今川義元と信玄の父・武田信虎の時代から良好な関係を築いてきました。義元は信玄に追放された信虎を引き受けたりするなど、信玄に代が変わっても友好関係は続いていたのですが、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれ、暗愚といわれる今川氏真が後を継いでからその関係が大きく変化するのです。

「海道一の弓取り」と呼ばれたほどの器量を持つ義元が亡くなり、父には到底及ばぬ今川氏真ではいずれ遠江・駿河は徳川・織田のものになると信玄は踏んでいた事は想像に難くありません。どうせ他国にとられるのであればその前に自分の手で・・こう思うのは当然ともいえます。海を持たなかった信玄にとって海に面した駿河は宝の山にも思えたでしょうしね。信玄は今川家の女傑といわれた義元の母であり氏真の祖母でもある寿桂尼(じゅけいに)存命時には表立っての行動は控えていましたが、寿桂尼が亡くなると三河の徳川家康と示し合わせて一気に駿河へと攻め込みました。今川家の領土のうち、徳川家康は遠江を、武田信玄は駿河を、という分割案であったそうです。先代義元の時には天下人に一番近いとまでいわれた今川家は、氏真の世代では戦国覇者候補者による草刈り場と化していたのです。

家康と信玄の今川領への侵攻によって苦境に立たされたのが、遠江国井伊谷領主で今川家に仕えていた井伊家なのです。今川に従うか徳川・武田に従うか。これは井伊の命運を左右する一大決断でした。そして井伊は最終的に天下統一を成し遂げた徳川家康につきます。ここで井伊家の行く末に光明が見えたといってもいいでしょう。この辺りの事は、小野但馬守政次井伊谷三人衆の記事に詳しく書いてあるのでそちらをご参照いただければと思います。

さらに信玄生前最後の出征となった西上作戦で井伊家は、圧倒的強さを誇る武田軍最強ともいわれた武田四名将の一人、山県昌景によって井伊谷城を奪われて浜松城へと撤退を余儀なくされます。頼みの家康も三方ヶ原の戦いで大惨敗を喫してあわや滅亡という危機を迎えてしまう程でした。しかし信玄の急病と急死によって命拾いし、井伊家は再び井伊谷を取り戻す事が出来ました。

二度にわたって襲来した甲斐の虎は、この頃まだ遠江国井伊谷の地方豪族に過ぎなかった井伊氏にとってはまさに黒船襲来といってもいいほどの一大事でした。存亡の危機に陥った反面、これが縁で徳川家康と急接近して家臣となり、井伊直政の大活躍によって彦根藩を与えられて幕末まで親藩として存続したのですからやはり歴史は面白いですよね。さすが甲斐の虎・武田信玄の影響力は凄いというのももちろんですよ。

「義経」での武蔵坊弁慶役以来12年ぶりの大河出演、“マツケン”松平健

そんな戦国最強の武田軍団を率いた甲斐の虎、武田信玄を演じるのがご存知大河ドラマを初めとした時代劇ではお馴染みの大御所、「マツケン」こと松平健さん。大河ドラマは1977年の「花神」、1979年の「草燃える」、1982年の「峠の群像」、1999年「元禄繚乱」、2002年「利家とまつ」、2005年「義経」に続いて7度目の出演となります。前回の義経での武蔵坊弁慶役からもう12年経つんですねえ、年取るはずです(涙)。

これだけのキャリアを積み、現役の俳優さんとしてはまさに「時代劇スター」と呼ぶにふさわしい数少ない一人、松平健さん。意外なことにその素晴らしいキャリアの中で一度も武田信玄を演じられたことがないそうです。今回がマツケン版武田信玄の初お目見えということとなります。

普段から時代劇愛を公言し、現在は凋落の一途をたどる時代劇の将来を強く憂いている松平健さん。そんな健さんにとって「甲斐の虎」と呼ばれた戦国時代の有名武将・武田信玄役はこれまでの俳優人生の中でも特別なものといえるかもしれません。実際、松平さん自身も、武田信玄役については、これまで縁が無かったけど演じてみたかった人物といってらっしゃいます。

今川・徳川の間に挟まれて苦悩していた井伊氏の前に現れた戦国最強の男、武田信玄。これほどマツケンさんにピッタリの戦国武将もなかなかいないのではないでしょうか。利家とまつでの柴田勝家役に匹敵するほどの当たり役となりそうな予感が満載ですね。

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