[おんな城主直虎]徳川四天王・十六神将の榊原康政(さかきばらやすまさ) 尾美としのり演じる名将の生涯とは?

織田信長・豊臣秀吉ときて最後は徳川家康が天下を握った戦国時代の天下取りレース。最終勝者となって江戸幕府を開いて征夷大将軍となった徳川家康には卓越した能力を持った家臣・徳川四天王と呼ばれた名将たちがいた事は有名です。

2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」は、遠江国井伊谷の領主、井伊直虎が苦難を乗り越えながら徳川四天王と呼ばれた井伊直政を育て上げ、井伊氏を守ったお話。徳川四天王に関する知名度はこのドラマを機に飛躍的に上がるでしょう。そこでここでは、直政とともに徳川四天王と呼ばれた一人、榊原康政をご紹介します。

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徳川四天王・榊原小平太康政(さかきばらこへいたやすまさ)の生涯・略歴

徳川家の重臣で上野国館林藩の初代藩主。通称を榊原小平太。官位は従五位下・式部大輔(大正四年に贈正四位)。徳川四天王及び徳川十六神将、あるいは徳川三傑にも数えられる名臣である。

徳川四天王とも呼ばれた榊原康政は天文十七年(1548年)に清和源氏三河仁木氏流榊原氏の榊原長政の次男として三河国に生まれた。幼名を於亀(亀丸とも)といった。榊原家には康政の兄・清政が長兄として生まれていたが、生来病弱だったために次男である康政が榊原家の名代となる事が多かったといわれている(兄・清政が切腹した松平信康のもり役だったからという説も有り)。そんな理由もあって榊原家は次男の康政が相続することとなった。

13歳で松平元康(後の徳川家康)の小姓となった康政は、永禄六年(1563年)の三河一向一揆で初陣を飾ると永禄九年(1566年)、19歳の時に元服。翌永禄十年(1567年)には、三河国を統一した家康によって敷かれた軍制改革によって前年に新設された、家康の直轄部隊である旗本先手役に抜擢されて与力4名を与えられる身分となった。この頃の旗本先手役には康政の他に同じく後に徳川四天王と呼ばれる事となる本多忠勝や、関ヶ原の戦いの前哨戦で家康のために伏見城で西軍の総攻撃を受けて玉砕して果てた鳥居元忠などがいた。

旗本先手役となって東三河勢や西三河勢とともに一大勢力となっていった榊原康政は、浅井朝倉連合軍との姉川の戦いや武田信玄の西上作戦における三方ヶ原の戦い、武田勝頼との長篠の戦や高天神城攻城戦など、家康の主要合戦のほとんどに主力として参加。長篠では本陣に突撃してきた武田四名臣の一人、内藤昌豊から主君家康を守り、惨敗した三方ヶ原では敵陣に夜襲を賭けて蹴散らす等の奮闘を見せ、高天神城攻めでは先陣を務めた。

天正十年(1582年)に本能寺で織田信長が明智光秀に討たれると、わずかな供回りとともに堺にいた主君家康とともに三河へと脱出した(伊賀超え)。

榊原康政の名を天下に最も高めたのが、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦い。徳川軍の主力として出陣した康政は、「白山林の戦い」において羽柴秀吉軍の最大部隊である豊臣秀次隊を休息中に奇襲、これを壊滅させるという戦功を挙げる事となった。

小牧・長久手の戦い後に家康が秀吉配下となると康政は京への使者に選ばれ、天正十四年(1586年)十一月九日、従五位下・式部大輔に任ぜられる事となり、同時に豊臣姓も賜る事となった。

関東の後北条家を討伐した小田原征伐で下された、家康の関東移封に際しては上野国館林10万石の大名となり、同時に関東総奉行となって江戸城修築等の総責任者として辣腕を発揮した。

慶長五年の関ヶ原の戦いにおいては、家康の本隊ではなく、徳川秀忠率いる中山道の別動隊に従軍。秀忠率いる部隊は関ヶ原本戦に間に合わなかったために家康が激怒したが、康政の取り成しによって矛を収め、伏見城で謁見したともいわれており、ゆえに生涯秀忠は康政に対する恩を忘れなかったともいう。

慶長十一年(1606年)、疔(ちょう/現在では毛嚢炎“もうのうえん”という)に罹って病床に伏せる事となった。二代将軍となっていた秀忠は、病床の康政を救うために医師を手配するなどしたがその甲斐もなく同年死去。享年59。榊原家の家督は三男の榊原康勝が継承した。墓所は群馬県館林市楠町にある善導寺。

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部隊長としては四天王最強の本多忠勝以上?知勇兼備の名将で井伊直政の親友

徳川四天王と呼ばれ、家康の配下として数々の戦で武功を挙げてきた歴戦の勇士がこの榊原康政です。

戦国ファンにはすっかりおなじみの徳川四天王ですが、この四人を改めてご紹介しておきますと、以下の通りとなります。

酒井忠次
本多忠勝
榊原康政
井伊直政

いずれ劣らぬ強者揃いであり、さすがは精強さで知られた三河節の面々だなという感じですね。ただし、戦国最強ともうたわれるほどの武勇を誇った本多忠勝や、赤備えの軍団を率いた井伊直政らと比べると、この榊原康政という武将は多少地味な感じはやはり否めません。

しかしこの榊原康政という武将、その徳川家康の元での功績は決して本多忠勝や井伊直政に勝るとも劣らない者であることは上に記した略歴からもお分かりいただけることと思います。

個人の武勇としては四天王の中で抜きんでているのがやはり本多忠勝という事になりますが、この康政の凄さは一群の将としての統率力です。部隊長としての強さですね。司令官としての能力は同じ四天王の井伊直政と双璧を成すものであったと「武備神木抄」という資料では伝えられているほどです。ちなみに部隊を率いる統率力に秀でていると称された四天王の井伊直政と榊原康政は徳川家中でも特に気心の知れた心友(親友)として有名であり、康政は「大御所様の御心中を知る者は家中広しといえども自分と直政だけだ」と述べたといわれているほどです。

さらにはただ戦に強いだけの猪武者ではなく、知略にも長けており、惨敗を喫した三方ヶ原の戦いにおいて家康本隊が壊滅状態で浜松城へ撤退した後に残兵を率いて武田軍に夜襲を敢行してから入城したり、寡兵を大軍に見せかける事で敵の戦意を喪失させるなどという軍略も得意としていました。まさに徳川四天王に相応しい器量を備えた武将だったのです。忠勝のような華こそありませんが、上からしてみればこれだけ頼りになり、使い勝手のいい武将もいないでしょう。だからこそあれだけ有能な武将揃いだった徳川家の武将の中から徳川四天王の一人に数えられたというわけです。

地味だが家康の天下取りに大きく貢献した名脇役に名バイプレーヤー・尾美としのり

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」では準主役の扱いともいえる重要人物である井伊直政とともに四天王にも数えられた徳川家臣・榊原康政。当然徳川家中を描くことの多くなる物語終盤では重要な登場人物となるでしょう。そんな榊原康政を今回の大河ドラマで演じるのが尾美としのりさん。大河ドラマの出演は、1979年の「草燃える」、2001年の「北条時宗」、2012年の「平清盛」に続いて5年ぶり4作目の出演となります。初出演の「草燃える」から2作目の「北条時宗」まで実に22年の間隔があいていますが、草燃える出演時の尾美としのりさんはまだ14歳でした。今の若い人たちにはあまり知られていないかもしれませんが、実は尾美さんは「劇団ひまわり」出身の元子役さんだったのです。

わたしも「転校少女Y」で主人公役の高部知子さんの相手役を務めたころから見ていますが、昔から本当に素晴らしい俳優さんです。鬼平犯科帳での木村忠吾役も素晴らしいですし、最近だとやっぱりNHKの朝の連続テレビ小説「あまちゃん」での主人公・天野アキの父親、「マサ」こと黒川正宗役も本当に印象深かったです。縁の下の力持ちって感じでとにかく脇で確実に光る俳優さんです。個人的に大好きなんで、四天王の榊原康政役に尾美としのりさん!!ってお知らせを見た時には軽くガッツポーズしちゃいましたね(笑)。四天王の中では地味だけど、家康の天下取りためには欠かせない存在だった榊原康政にこれだけピッタリの俳優さんもいないと思います。

尾美さんの演技によって、このドラマが終了する頃には「徳川四天王といえばなんつっても榊原康政だよね」というファンが一人でも多く増える事に期待しましょう。

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