ラウル・ワレンバーグとは?杉原千畝、シンドラーだけじゃない!10万人のユダヤ人の命を救った男 その数奇な運命

第二次世界大戦でヒトラー率いるナチスドイツが行った最大の悪行・ホロコースト(ナチスのユダヤ人大量虐殺)。ホロコーストによって犠牲となったユダヤ人の数は約600万人にも及ぶとも言われており(諸説あり)、間違いなく世界史に残る負の歴史です。

ラウル・ワレンバーグ

日本人にはあまり馴染みの無い名前かもしれません。

ホロコーストの負の歴史の中において、多くのユダヤ人の命を救ったスウェーデンの外交官です。

今年に入ってこの一人のスウェーデン外交官の死亡が、ようやく失踪から71年経って認められようとしています・・

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ラウル・ワレンバーグ(ラウル・ヴァレンベリ)とは?

71年前に行方不明となったスウェーデンのラウル・ワレンバーグ(ラウル・ヴァレンベリと表記される事も)。

そんなワレンバーグの死亡が今年の秋にも認定されるのだそうです。なぜワレンバーグは71年もの間、行方不明となっていたのでしょうか。そして彼が成し遂げた事とは何なのでしょうか。

出典:wikipedia

出典:wikipedia

名  前:ラウル・グスタフ・ワレンバーグ
出  身:スウェーデン・ストックホルム・リーディング島
生年月日:1912年8月4日
職  業:外交官、実業家
最終学歴:ミシガン州立大学

簡単なワレンバーグの経歴です。もしも生きていれば103歳であったという事になりますね・・

個人的な話で恐縮ですが、二十年程前に亡くなったうちのお祖父ちゃん、お祖母ちゃんと同世代です。日本の有名人で言うと、映画監督の新藤兼人氏や俳優・司会者である関口宏の父・佐野周二氏、自民党で幹事長や衆議院議長を務めた政治家の櫻内義雄と同学年であり、世界的に見れば、ローマ教皇のヨハネ・パウロ1世や北朝鮮の金日成初代国家主席と一緒となります。そう考えれば、それほど手の届かない程昔の人って訳でもないと思えますね。

オスカー・シンドラー、ニコラス・ウイントン、杉原千畝・・命を懸けてホロコーストと戦った勇者たち

ナチス・ドイツのユダヤ人虐待から多くのユダヤ人を救った人として真っ先に挙げられるのが、ドイツ人実業家のオスカー・シンドラーでしょう。リーアム・ニーソンがシンドラー役を演じたスティーブン・スピルバーグ監督の映画、「シンドラーのリスト」で一爆有名になりましたね。

シンドラーは、自らの私財を投げ打って自らが経営する工場で働いていた多くのユダヤ人の命を救いました。アウシュビッツ強制収容所に趣き、そこにいたユダヤ人たちを助け出した事もある行動力の人です。

最近になって注目を浴びているのがイギリスのニコラス・ウィントン。

第二次大戦の開戦前夜、ナチスの強制収容所に送られそうになっていたチェコのユダヤ人難民の子どもたちを救った男がウイントンです。彼はイギリスでユダヤ難民の子どもたちの引き受け手や里親を探し、彼らをイギリスに移住させることで多くの子どもたちの命を救いました。彼のこの功績が世に出たのは彼の行動から49年後の1988年。それまで彼は一切このことを口外しませんでした。まさに名もなき英雄ですね。

日本で有名なのは、何といっても杉原千畝でしょう。

杉原千畝は第二次世界大戦中にリトアニアに駐在していた日本の外交官です。彼はリトアニアでの外交官時代に、所属する外務省の意向に逆らって、ユダヤ人難民のビザを大量に発行。およそ6000人にも及ぶユダヤ人の命を救ったと言われています。彼は今、日本の若者たちの間でも、最も尊敬できる日本人として上位に入るほどの認知度を得ている偉人です。

シンドラーや杉原千畝に比べると、日本ではあまり知名度のないラウル・ワレンバーグ。しかし彼の功績は決して地に埋もれさせてはならない程のものなのです。

スウェーデン有数の名家・ワレンバーグ家に誕生そしてユダヤ人実業家との運命の出会い

ラウル・ワレンバーグが生まれたワレンバーグ家(ヴァレンベリ家)は、スウェーデンでも有名な大実業家一族であり、有数の資産家一族でした。いえ、でしたという過去形は正しくないですね。大実業家であり大資産家なのです、現在でも。なんせ、スウェーデンのGNP(国家総生産)の30%はワレンバーグ家に関連したものであると言われるほどですから。ちなみにラウルの姪にあたるナーネは前国連事務総長のコフィー・アナンの妻となっています。

そんな名家に生を受けたラウル・ワレンバーグですが、海軍士官であった父は彼が生まれる前に24歳という若さでこの世を去ります。ラウルはワレンバーグ家の大黒柱であり、日本で外交官をしていた祖父のグスタフの庇護の下で育ちます。成績優秀だったラウルはトップ成績で高校卒業後、母国スウェーデンの兵役を得てアメリカのミシガン大学に進学し、建築学を専攻します。

その後は祖父グスタフの意向もあってパレスチナや南アフリカなど世界各地を飛び回り、各所で貿易、銀行家として活躍します。世界各地をビジネスで訪れるうちにラウルは世界各地で迫害されていたユダヤ人の現状をつぶさに見る事となります。これが後の彼の行動に大きな影響を及ぼす事となるのです。

そしてビジネスマンとして世界を股にかけて活躍していたラウルは、一人のユダヤ系実業家と出会います。ハンガリー人であるその実業家の名はコロマン・ラウアー(ラウエル・カールマーン)。ラウアーは実業家としてのラウルの実力と将来を嘱望し、ラウルを自身の側近として登用。ラウルはラウアーの右腕としてさらにヨーロッパ全土に活躍の場を広げていきました。そしてこの出会いがラウルの運命を決定付ける事となるのです。

ナチスの脅威からユダヤの人たちを救う大役を任せられたワレンバーグ

ナチスドイツのユダヤ人迫害はドイツ国内のみだけでなく、ナチスが猛威を振るっていたヨーロッパの各国へも及んでいました。ナチスドイツの勢力下にある国はもちろん、ナチスの脅威に怯える国、ナチスに対して親善的立場にある国などは自国のユダヤ人をナチスに引き渡したりもしていました。

こうしたナチスのユダヤ人迫害は、世界各国のユダヤ人を通じてその救済が訴えられてきましたが、なかなか本格的にユダヤ人救済に乗り出す国も無かったのが当時の現状でした。こうした状況が動いたのが1944年です。アメリカ大統領選で再選を目論んでいたフランクリン・ルーズベルトは、自身の二期目の大統領就任を支援するユダヤ人団体の働きかけなどもあって、大国としては初めて公にナチスのユダヤ人迫害を非難し、その救済へと動き出します。そして「戦時亡命者委員会」なるものが組織される事となります。

当時ナチスは一時の勢いを失っていました。ソ連での戦闘で苦境に立たされていたナチスは、ソ連からの撤退後に戦場となるであろう、ハンガリーとルーマニアを軍事的に占領し、完全に自国の占領地としようとします。そこで実施されたのがマルガレーテ作戦です。ルーマニア占領は果たせなかったものの、ハンガリーの占領には成功し、ナチスはハンガリーを自国の占領下に加えていました。

ナチスの傀儡政権であったハンガリーのデメ首相は、ハンガリーのユダヤ人をドイツの収容所へ移送し始めます。これに危機感を抱いた戦時亡命者委員会は、当時ヨーロッパで中立を保っていたスウェーデンに事態を説明し、スウェーデンはハンガリーのユダヤ人たちから事情を聴くことになるのです。そしてそのユダヤ系ハンガリー人の中に、実業家のコロマン・ラウアーがいたのです。

外交特権を利用した証書でユダヤ人を保護

ハンガリー国内でユダヤ人の窮状を打破できる人物として、ラウアーの側近であり尚且つ事態の調停役ともいえるべきスウェーデンの人間でもあるべきラウルは、まさにうってつけの存在でした。

ラウルは先にも述べた通り、世界各地をビジネスマンとして飛び回っていた時代に、各国で苦境に立たされるユダヤの人達の姿を見てきていました。ラウルはこの話を快諾します。そしてその際に一つだけ条件を出しました。外交官特権を与えてほしいという事です。外交官特権とは身体的不可侵・住居不可侵など様々な要素がありますが、要はハンガリーが(というよりもその親玉であるナチスドイツが)、スウェーデンを代表する外交官であるラウルに無暗に手出しできないという事です。そしてラウルはハンガリーの首都・ブダペストへと行くこととなるのです。

ハンガリーに外交官として赴任したラウルは、保護証書を大量に発行し、ハンガリー国内のユダヤ人に配布します。この保護証書によって、証書を所持するユダヤ人は中立国であるスウェーデンの保護下に置かれたこととなり、ナチスが容易に手出しする事が出来なくなりました。さらにセーフハウスと呼ばれるユダヤ人を保護するための邸宅を各地に建てさせ、そこにユダヤ人たちを匿ったうえで、外交特権によってナチスを寄せ付けませんでした。時には首都のブダペストからドイツ国境へ移送されるユダヤ人を乗せた貨物列車に乗り込み、ナチスの軍人たちの前で証書をユダヤ人たちに配布、外交特権を盾にとってユダヤ人たちを開放するという、強引なやり方も辞しませんでした。

死の行進を中止させ、ゲットーでの殲滅作戦を未然に防ぐ

1944年10月にはハンガリー国内でクーデターが発生し、クーデターを主導したナチスの意向に近い反ユダヤ政権が誕生しました。これによってハンガリー国内のユダヤの人々はさらなる迫害にさらされる事となります。この頃有名であったハンガリー国内でのユダヤ迫害の象徴が「死の行進」です。これは、数十万人にも及ぶハンガリー国内のユダヤ人たちをドイツとの国境付近まで徒歩で行かせると言う過酷な物でした。もちろんその後はドイツ国内の収容所へと送られる事となります。この死の行進でもラウル・ワレンバーグは行進途中のユダヤ人たちに証書を配り、さらに国際的にこの暴挙を知らせ、世論を動かす事で死の行進を中止させることに成功しています。

さらにラウルは、ソ連軍のハンガリー進行によって戦況不利となり、ハンガリーを捨ててドイツに撤退するナチスが立てていたとんでもない計画を知る事となります。撤退時にハンガリー国内のユダヤ人たちをゲットーと呼ばれたユダヤ人居住区ごと殲滅させようとしていたのです。これを知ったワレンバーグはナチスの将校に直談判。そしてこの暴挙を止める事に成功するのです。

ワレンバーグのこれらの行動は、いかに中立国スウェーデンの外交特権を持った外交官という立場にあったにせよ、ナチスにとっては邪魔者以外の何物でもありませんでした。ワレンバーグは様々な妨害や、時には命の危険にも見舞われたと言われていますが、身の危険を顧みずユダヤ人たちを救い続けたのです。

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笑顔でソ連軍司令部へと向かった運命の日、1945年1月16日

そしてついにその時は来ました。1945年に年が変わると、ハンガリーに向かって進軍していたソ連軍がついにハンガリーに入り、ナチスはドイツ本国へと撤退してしまうのです。

これによって、ハンガリーにおけるユダヤ人のナチスからの脅威は去る事となったのです。ワレンバーグの孤独な戦いがようやく終わりを迎える時が来ました。

そしてその日が来ます。

1945年1月16日。ブダペストに本拠を構えていたソ連軍の司令部へとワレンバーグは向かうのです。

要件はハンガリー国内のユダヤ人保護について話し合うため・・

周囲の人間は危険だからと行くのを止めたそうです。しかしワレンバーグは心配する声をよそに、笑顔で出掛けて行きました。そしてそれがワレンバーグが人前で見せた最後の姿となったのです。

ナチスの脅威が去った後までも彼はユダヤの人たちのために行動していたのです。優れた外交官でもあったワレンバーグ程の人間であれば、当時のソ連がどのような国であり、どのように危険な存在かは恐らく理解していたでしょう。その上で出向いたのです。そして、彼が帰ってくることはついになかったのです。

消息不明から71年。ようやくワレンバーグの戦争が終わりを迎える・・

ユダヤ人保護のために単身ソ連軍司令部へと向かったワレンバーグは遂に帰ってくることはありませんでした。彼に救われたユダヤ人たちは戦後、「国際ワレンバーグ協会」を設立。彼らは大恩人であるワレンバーグの消息を求め活動します。

そしてワレンバーグの失踪から約12年後の1957年に事態は動きます。当時のソ連外交官であった後のソ連外務大臣、アンドレイ・グロムイコは消息不明のワレンバーグがソ連の刑務所で心筋梗塞のために10年前に死亡していたことを発表するのです。しかしこの死亡宣告は裏付けとなる証拠や資料などが一切示されておらず、彼の消息を求める人たちにとっては到底納得できる説明ではありませんでした。

その後時は流れ、ゴルバチョフ時代のソ連末期にワレンバーグが1947年7月に刑務所内で病死したとされる資料が発見されます。その後はワレンバーグの逮捕やモスクワへの移送を命じた命令書なども発見され、ソ連政府から遺族に遺品が返されたりするなど、事態は大きく動きました。しかしどれもワレンバーグの死を決定付ける決定的証拠とはならないまま、失踪から71年が過ぎました。

ワレンバーグの財産管理人は今年に入ってワレンバーグの死亡認定を申請。早ければ秋にも正式に死亡が認定される見通しです。

「墓場なき英雄」とまで称されたラウル・ワレンバーグ。その孤独な戦いが本当の意味でようやく幕を閉じようとしているのです。

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